12、水没後の銀山平(最終)

いよいよ本を追っての「銀山平の生活を振り返る旅」も終わりです。
参考著「銀山平を拓いた人々」では、水没後の銀山平にも
触れていますが、巨大な人造湖として観光地へ向かう奥只見湖。
ダム湖を船で鷹巣へ渡り、尾瀬ルートとして名乗りを上げたこともあり
奥只見・銀山平の自然そのものが観光資源に向かう中
ダムが出来たことで自然そのものにも変化が訪れたそうです。
たとえば銀山名物とまで言われ困窮していたメジロアブの襲来も
当初、遊覧船が桟橋に近づくとアブがワット襲って来るのを避ける為
沖合から接岸するなどの工夫が必要だったのが、2~3年たつと
アブが激減。それはこのアブが葦の葉の付け根に産卵するため
その葦原が水没し、繁殖地が激減した為ではないかと思われる。
またイヌワシも、それまでは見られなかったのが生息し始め
他の猛禽類が増えてきたのも、ダムのお蔭で豪雪地にも関わらず
冬の間も雪の少ない場所が現れ、岩場に残る笹、椿、苔、ツツジ等
餌を求めて野兎が集まり、更にウサギを求めた小動物、そして
それらを食す猛禽類が集まるという食物連鎖が始まったとの事。
これらの食物連鎖では、逆に現在は野兎が激減したことや
その他の自然環境の変化から、イヌワシの生息が激減しています。
野兎の激減は、森林伐採の休止で森林の手入れがなされず
下草が生えにくい環境や、野兎特有の伝染病の発生など考えられ
また、森林が立て込むことで猛禽類が餌とする小動物を見つけにくい
空から飛翔するには森林が邪魔をする、などの原因が考えられ
森林の維持管理に人間が携わる必要性が伺われます。

そして鷹巣に残された12戸は、昭和32年に新たに分校が立てられ
鷹巣の人々は船で八崎(奥只見ダムサイト)へ渡り、シルバーラインを
利用して、里と行き来が出来るようになり、利便性が向上したようです。
ただ冬の間は湖上が雪に覆われ遮断されるのですが、慣れるうちに
湖上の雪を踏み外さないよう、スキーで往復することもあったとか。
その鷹巣地区も昭和42年11月、湯之谷村が建てた公営住宅へ
居を移し、鷹巣分校は夏季分校とし残されました。
それは山仕事がそのまま継続され、春には山へ帰り、秋のなめこ採りを
終えて下山するという生活の為で、完全に分校が閉校されたのは
昭和48年との事です。

昭和52年に嫁いできた私では、想像すらできない銀山平の生活ですが
最初にこの本を手にした時よりは、だいぶ事情も掴めてきたような気がし
ずうずうしくもブログ記載してしまいましたが、地元の人々から聞きかじり
疑問に思う事(疑問すらわかない事も含め)などを、両親に質問し
参考とした銀山拓殖株式会社の社史「銀山平を拓いた人々」を
読み進めながら、自己流解釈で覚書としました。
たぶん解釈違いにより、間違いも含まれると思いますので
ご了承のうえ読んでいただければ幸いです。
更に、両親から話を聞いてみたい方はお問い合わせくだされば
ぜひそのような機会を設けたいと思っています。
幸い両親も健在で、私の申し出を快く引き受けてくれています。
皆様が直接話を聞くことで、より正しい伝承がなされれば良いなと
思いながら、きっかけ作りのシリーズを記してみました。

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