11、奥只見ダム建設

昭和33年4月に「6月30日までに水没する移転家屋は立ち退くよう」
通告が出され、現地にあった旅館銀山荘を電源開発(株)が借用する。
実質的な工事は昭和29年から開始され、ダムの本体工事は33年から
35年6月には一部湛水が始まり、12月には一部発電が始まりました。

ダム建設に伴う工事が盛んになるにつれ、当時見たこともないような
大型土木機械が次々運び込まれ、ダムの建設された八崎には
ピーク時五千人もの作業員が働いていたそうで、作業員宿舎や
建設事務所の他、臨時派出所、病院出張所、売店などができ
休日には作業員の大半が、胴巻きに札束を詰め込み
トラックの荷台に詰め込まれ小出町に下り、長岡まで遊びに出たとか。
おかげで小出町は随分潤ったようですが、このダム工事では
工事に伴う事故等で殉職者が117人にも上ったそうです。
銀山平の入植者は補償金を受け取り、出身地へ戻った人
新たな地へ移転した人と散り散りになり
水没しなかった鷹巣の12戸が残されました
義母の実家は与板へ移転、長姉夫妻や従兄弟は埼玉県へ移転し
新たな仕事に付きましたが、埼玉には数件移住しているので
農地開拓の様な移住だったのかも知れません。
また宇津野五十八組合も補償金を受け取り、その資金で
家を新築した為、同じような家が立ち並んでいるのですが
義父から聞いた話では、一枚の設計図をそれぞれの土地に合わせて
利用した為、ほとんど間取りが同じ家が立ち並んでいるのだそうです。
中には使い慣れない大金を手にして、毎日大湯温泉街の芸者通いをし
瞬く間に使い果たした人もいたなどの、噂話も聞かれました。

「銀山平を拓いた人々」 磯部定治 編著を参考にしていますが
両親から聞いた話なども入り混ぜ、当時を知らない私の作文である為
間違いがあり得ることをご容赦ください。

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