カテゴリー アーカイブ: 昭和思い出語り

8、銀山平のゼンマイ小屋暮らし

いよいよ夫が生まれたころの、銀山平の生活になりますが
今日の話は両親から聞いたもので、参考資料本とは別になります。
丁度私が嫁いだ年の直後でしたので、35年ほど前になりますが
村杉小屋の裏庭に、義父が手作りの小屋を作ったことがあります。
山菜小屋とはこんな感じの小屋だそうで、現地で柱木を伐り
木々の組合わせを縛るのも細い木を使い、ロープや蔓ではないそうで
主にマンサクの木などを使ったそうです。

山菜小屋

燻小屋

柱になる木は雪で曲がった物を使い、丁度よい小屋のカーブとして利用。
この写真では、中にベニヤ板を張っているようですが、当時は
山で現地調達できる資材だけ、屋根や壁は茅葺(ススキ)だったようです。
必要なものは全て担いで運ぶため、必要最小限のため
布団などもなく、雨具の蓑や干しぜんまいを入れる麻袋などに
包まって寝る状態だったとかで、2~3週間とは言え厳しかったそうです。
よくこのゼンマイ小屋での、子育てエピソードとして聞いていたのが
4月生まれの夫をおぶって小屋に入り、赤ん坊の入浴はゼンマイ釜利用。
茹で釜は石釜だったとかで、一度お湯を沸かした後は余熱があり次回は
すぐに沸く為、ゼンマイ茹でを終えた後、水を変え入浴させたそうです。
後はつぐらにねんねこで包んで寝かせたまま、仕事をしていたとか
近くにいるとはいえ、次のお乳の時間まで一人で寝かされていて
今では考えられない環境ですが、皆必死で生きていたのです。
この小屋は家の代わりでもありますが、中で薪を燃やして燻
茹でたゼンマイを、薪の上に吊るした棚の上で干し上げたそうです。
昼間はゼンマイを折り、夕方お湯を沸かし茹でた後
夜11時ごろからゼンマイを揉みながら干したというのですから
いかに過酷な重労働だったかが伺えます。
そして引き上げる時、小屋はそのまま残して行ったそうで
収穫のゼンマイも担いで下す必要があった為、途中にある家に
荷を置かせてもらい、ゼンマイ小屋から数往復し全て運び出した後
北之岐にある出作小屋まで歩いて運ぶという、大変な事だったそうです。
ただここまで来ると、当時森林を運び出すために使うトロッコがあり
利用したり、枝折峠も現在の国道352号の元になった細い車道が
出来ていて、トラックの行き来があり、便乗させてもらう事もあったとか。
義父の記憶では、初期のトラックは木炭自動車だったのではと。
木炭自動車って?・・・蒸気機関車しか想像できなかったのですが
木炭を置くスペースも必要で、荷は多く積めなかったとか。
色々と面白い話に飛んでいき、今まで聞きかじっていた話以上に
こぼれ話が聞けましたが、写真の小屋も冬は中に補強柱を追加し
雪に埋もれさせていましたが、壊れることもなく数年もちました。
夏はお客様とお茶を飲んで楽しんだり、秋は自家大根を中に吊るし
薪を燃して燻し、燻沢庵を作ったりと大活躍していました。
残念ながら夫はこの技を引き継いでおらず、思い出写真が残るだけ・・

7、昭和期 銀山平分校の始まり

銀山平の開拓も昭和に入り、恐慌や凶作等の問題もありましたが
厳しいなりに生活に落ち着きが出来、開拓団の中にも子供が育ち
教育問題が問題となり、昭和4年ころには寺子屋が出来たようです。
その後しっかりした分校を作るにも、先生を見つけられずにいる中
葎沢に住む若者が入ってくれることとなったそうですが、銀山平には
鷹巣と浪拝(ナミオガミ)の2カ所の分校があり、通いきれないので
先生が1週間交替でこの分校を行ったり来たりして教えたとの事。
この先生と銀山平の住人との強い絆と交流が伺われますが
分校自体5月8日から11月8日の開校である上、ゼンマイ折りの
季節になると、更に山奥の出作小屋へ親が入る間は休校にもなる
と言う環境で、短い学校生活であったようです。
さてここで、両親からの聞き取り再開・・・
義母は昭和4年生まれで、長姉が10歳ほど上ですので
この頃のどんな記憶があるのか確認すると
当事は、12歳まで分校に通いながら銀山で生活し、その後は里に
下りて住込みの奉公に出たとの事、戦争へ向かう時代でもあり
里の暮しもあまり変らなかったようですが、奉公に出ると言っても
13歳ですので、最初は子守や家事手伝いなどの仕事から始まり
奉公先の仕事に移っていったようで、その間に裁縫などを習い
身に着けて行ったようです。
当然話はそのまま、両親が結婚後に暮らした銀山平の生活へと
続くのですが、当時五十八の土地では、ゼンマイ折りが生業の
最盛期の頃で、山を競るにも山手が高く、家族が多くないと合わず
北之岐の出作小屋で山仕事をしていた両親は、さらに奥にある
恋の又までゼンマイ採取に入っていたこともあるとか。
恋の又は義母の親戚がゼンマイ権利を持っていて、未使用の地を
使わせてくれたとの事ですが、この時に住む家と言うのが
近くで伐採した根曲りの木を柱に使い、茅葺の屋根を付けた
簡単なもの。ゼンマイ折りの二~三週間だけ住む借家住まいの為
布団もない生活で、寒い小屋の中で蓑や麻袋などを布団代わりに
過ごす厳しいものだったそうです。
次回はこの辺りの聴き語りをしたいと思います。

6、銀山平入植者の暮し(明治、大正)

銀山平の入植者の暮しに関して、かろうじて聞いているのは昭和期
こちらの本からはそれ以前、明治、大正の様子を感じてみます。

入植当初は40戸近くあった入植者は、大正6年頃には20戸になり
ほぼ定着したとの事ですが、自然の厳しさが伺われ
現在の鷹巣と言う地名の由来も、当時たくさんいた野兎を狩りする
鷹の餌場になっていたことからとあります。
開拓には小さな木立は伐採し焼却、使える物は売却し
須原口から河口まで五十二里(208km)も流して運搬するため
只見川、阿賀野川の地形が難しく、長く続かなかったとか。
農業では失敗しながらも、自給用のコメ作りにも挑戦しましたが
ほとんどは雑穀や野菜などで、出来る限りの自給生活を試み
主な生業としては、林業の現地制作としての木工品作りや
販売目的の、春はゼンマイ折り、秋はなめこ採り、そして養蚕でした。
一時は和牛の放牧も試みられたそうですが、雪深い冬場に備え
里の農家に牛を預ける為、枝折峠を牛歩速度で上り下りさせる手間や
冬の飼料代などで長続きしなかったとの事です。
昭和に入るまでにも、色々な開拓仕事に挑戦しては失敗する中
雪崩やネズミの異常発生など、自然災害の厳しさも伝わってきますが
反面、狩猟や川魚漁など、その恩恵にも与っていた訳で
阿賀野川から只見川へと登ってくるサクラマスなどは貴重な産物。
そのサクラマスが、昭和初年に阿賀野川下流にダムが出来てから
ぱったり姿を消し、銀山平住民にとって重大問題となったようです。
こうして時代を振り返ってみると、時代の移り変わりと共に
生活は変わってきましたが、自然との関わりの中で
自然災害の厳しさからは、逃れることが出来ないことも
自然の恵みを享受していることも、いまに引き継がれていて
人間も自然の中の生物の一つだ、との事が再認識されます。

参考資料 銀山平を拓いた人々 磯部定治 編著  
                     新潟日報事業社

5、銀山拓殖株式会社の立上げから入植まで

さて次に、銀山拓殖株式会社の設立について書かれていますが
参考資料として読んでいる本は、こちらの社史になりますので
中途半端な私の解釈が入ると、間違えそうなので省きます。
ただ当事の資産家たちが私財をなげうって、地域開発に積極的に
取り組んだ姿勢が伺われ、感心致します。
そして奥只見や銀山平地区のこみ入った地主権のあり方も
少しだけ理解できたのですが、今現在の正式住所と言うのが
奥只見地区は芋川、銀山平は宇津野、銀山平森林公園内は
下折立と、昔は里地域の飛び地としていた住所のままです。
その為、カーナビで正式住所を打ち込まれてしまうと
シルバーラインに入る手前の、里の住所で指示されてしまい
かえって迷う事になる方がいらっしゃるので、住所表示は
あえて銀山平温泉とだけにしています(郵便、宅配はこれでOK)。
ちょっと複雑ですが、この銀山平森林公園内が下折立であるのは
国有地編入を承諾した後に、この平だけを国から払い下げ購入し
開拓を試みた時期があったとの事でした。
義父の話では、銀山平森林公園内の開拓を諦めたのは
昭和に入ってからで、その時開拓資金が借金として残っていた為
湯之谷村に買い上げてもらったとの事で、今回銀山平森林公園の
敷地として利用が可能であり、移転する土地を購入出来たのです。

さて同様の事がそれ以前、明治のはじめ頃にもあり
国有地に返還してしまった、下折立の人たちが弁護人をたて
国からの返還を求めて、民有地認定の訴訟をおこしたそうです。
しかし訴訟に負けたため、縁故払下げと言う手続きをしたうえで
下折立の人たちから権利を譲り受け、その払下げ費用を出し
買い取ったのが、現在の銀山拓殖株式会社の前段階だそうです。
この土地は、現在奥銀山と呼ばれている辺りになりますが、その後
明治43年より45年にかけて、開拓準備、入植と続くようです。
この時入植したのは、北魚沼郡や古志郡から20戸あまり
福島県は桧枝岐他10戸余りが応募したとあり、その入植者氏名に
義母の父の名も記されています。

参考資料 「 銀山平を拓いた人々 」磯部定治 編著 
上記本を参考にしていますが、ここに記載した内容は完全な抜粋ではなく
聞いた話も記載していますので、間違えている可能性があります。
あくまで聞き語りとしてご理解いただき、ご容赦ください。

4、銀山平探検隊から

明治34年、35年と続けて銀山平探検隊が組織され
行政、学者、技術者、報道関係者らが銀山平を訪ねたとのこと。
この時一行は、銀山平で出作小屋に泊まりながら生活を実感し
その地で出来る生産活動に思いをはせた様子で
今現在に繋がる、電力発電などの発想も上がっていたようすです。
案内人からの説明を受けたりしたとの事で、いまの地名に繋がる
解説が幾つか載っていたので、記してみると
当事の枝折峠は現在の「銀の道」ですが、その各合目にある
名前の意味合いは、目印的なものと思われますが
「牛の涙」=峠の厳しさに牛もなくという事から
「日本坂」=日本中が見渡せるほど見晴らしが良い
など、当時の地名の付け方が同じなのか、各地方に同様の
名前が多く残っていることに頷けます。
当事、宇津野地区の人が出作小屋を建てたのが
現在の北之岐川:銀山平地区と、須原口だったそうで
この須原口とは、只見川と北之岐川の合流地点付近の平で
現在は湖底(神社下付近)となっているところだそうです。
そこには小湯の岐(こゆのまた)と呼ばれる温泉があり、
小湯の岐⇒恋之岐に変化して今にあるようですので
決してロマンチックな恋ではなく、小さい湯だったのですね。
この探検隊では、各方面の可能性を吟味し
〇 土木・・・木材の搬送には川の他、隧道も検討された
〇 森林・・・木材の搬送は春先の堅雪を滑らせたり、川を流したり
        したが、それも無理なものは現場加工していた。
〇 水産・・・只見川も北之岐川も鱒漁が盛んで、すでに漁業権が
        設定され、産卵期の禁漁を提案している。
〇 農業・・・雑穀、野菜、苧麻(カラムシ)、桑、楮など
〇 鉱物・・・捨てられている坑道にもまだ可能性がある
等の結論を出しているそうですが、水力発電の可能性も
既に運搬作業に利用すべきと思考されていたりしたようです。
そしてこの水産部門で言う鱒と言うのは桜鱒のことで、当事は
この山奥へ海から登ってくるサクラマスがいたという事なのです。
そこで現在との立地条件をの違いを確認したく両親の部屋へ・・
確認出来たことは、ほとんどの立地条件は現在に引き継がれ
現在残されている「銀の道」が当時の枝折峠であることは
前にも述べましたが、この後開拓の過程では、運搬用に適した
より広い山道が、栃尾岐温泉の辺りから切り開かれたこと。
北之岐川は只見川と合流し、現在奥只見ダムの流れ同様に
大鳥ダム→田子倉ダムの流れに沿って、阿賀野川に流れて
いたことが確認でき、長い距離をサクラマスが遡上していた
ことに驚きを感じました。
そして後に、目的は違えども隧道が出来、奥只見ダムの建設に
至ったのですから、地元の開発にかける情熱が伝わります。

それにしても、この確認の為両親の話を聞いていると
銀山平の開拓は、何度かに分かれて挑戦されていたことや
現在の銀山平森林公園の土地が、湯之谷村の村有地として
残っていたいきさつなどが聞かれ、興味深いものでありました。
もちろんその昔語りの中には、より細かに人名、屋号が登場し
佐藤家の歴史や家系図に繋がるのですが、昔の田舎暮らしでは
ご近所の結婚が当たり前である為、近隣集落とのつながりが多く
遠い親戚関係にまで話が及ぶため、とても一度では理解できない
奥深いものである事が分かります。
ふだん聞き流してきた、こんな話が聞けるきっかけとしても
今回の企画は自分自身の為であったと、つくづく感じますが
両親にとっても、伝えておきたい話の一つでもあったようです。