カテゴリー アーカイブ: 昭和思い出語り

川の流れのままに

なんとなく思いついて始めてしまった、昭和思い出語り
「奥只見・銀山平」で、気が付けば12月に入っていました。
今年の天候は新雪が降っては消えてを3度も繰り返し、寒気としては
早いのか遅いのか判断の付かない変化のある気象で、取り合えず
現在3度目の里雪は跡形もなく消えて、新たに山肌だけ薄っすら雪化粧。
近年の異常気象から始まり、初めての経験は年を重ねるごとに蓄積され
不安も、感動もどんどん記憶の奥に遠ざかり、今があるのみの感じです。
今年は私事でも、変化の波に流されて今に辿り付いたような不思議な気分で
次女がカナダから初めての里帰りをし、長女も時期を合わせて帰国
私の母、兄弟家族が一堂に集まる会を村杉で行い、母との最期の
楽しい思いで作りが出来ましたが、全て自営業の私にとって無理のない
スムーズな日程で運ばれたのも、不思議な縁を感じます。
そして先日、写真の整理から昔話に花が咲き、それぞれの記憶の
すり合わせをしてみると、昭和時代の生活をも振り返ることとなり
私たち自身が、時代を振り返る年齢に達していることに気付きました。
そういえば数年前、津南町出身の父が、戦後東京へ出たいきさつなどを
聞いた事があり、それまで聞かされることのなかった話に興味を持ち
ゆっくり聞いてみたいと思いながらも、急逝され聞くことが出来ず
父の葬儀で予科練時代の親友から、すこしだけ話を聞くことが出来ました。
そんな訳で銀山平の昔語りも今が最後のチャンスと思い、聞いてみる事に
お客様からよく聞かれる「銀鉱があった時代は? ダムが出来たのは?」
など時代的な背景も再確認し、お答えできるようにしたいと
私自身の覚書の様な作業となりました。
取り急ぎ、奥只見ダムの出来るまでを纏めてみましたが、今後追記できる
事があれば続けて行こうと思いますし、あえて「昭和思い出語り」とした
ように、銀山平から離れた事柄に触れる機会もあるかもしれません。
時々同年代のお客様と「あのころはそうだったよね!」と盛り上がることが
あったり、少し若い方とは「そんな時代だったのですね」と語り合うことが
ありますが、一世代前となった昭和を再認識できたら楽しいと思いますし
度重なる自然災害も、長い地球の歴史の中では、幾度も繰り返してきた
当たり前のことだと受け入れられるような気がします。
まるで豪雨の度に流れを変えてきた川が、その後何事もなかったように
新たな流れの中で、自然界の生き物と関わりを続けている様に・・・

12、水没後の銀山平(最終)

いよいよ本を追っての「銀山平の生活を振り返る旅」も終わりです。
参考著「銀山平を拓いた人々」では、水没後の銀山平にも
触れていますが、巨大な人造湖として観光地へ向かう奥只見湖。
ダム湖を船で鷹巣へ渡り、尾瀬ルートとして名乗りを上げたこともあり
奥只見・銀山平の自然そのものが観光資源に向かう中
ダムが出来たことで自然そのものにも変化が訪れたそうです。
たとえば銀山名物とまで言われ困窮していたメジロアブの襲来も
当初、遊覧船が桟橋に近づくとアブがワット襲って来るのを避ける為
沖合から接岸するなどの工夫が必要だったのが、2~3年たつと
アブが激減。それはこのアブが葦の葉の付け根に産卵するため
その葦原が水没し、繁殖地が激減した為ではないかと思われる。
またイヌワシも、それまでは見られなかったのが生息し始め
他の猛禽類が増えてきたのも、ダムのお蔭で豪雪地にも関わらず
冬の間も雪の少ない場所が現れ、岩場に残る笹、椿、苔、ツツジ等
餌を求めて野兎が集まり、更にウサギを求めた小動物、そして
それらを食す猛禽類が集まるという食物連鎖が始まったとの事。
これらの食物連鎖では、逆に現在は野兎が激減したことや
その他の自然環境の変化から、イヌワシの生息が激減しています。
野兎の激減は、森林伐採の休止で森林の手入れがなされず
下草が生えにくい環境や、野兎特有の伝染病の発生など考えられ
また、森林が立て込むことで猛禽類が餌とする小動物を見つけにくい
空から飛翔するには森林が邪魔をする、などの原因が考えられ
森林の維持管理に人間が携わる必要性が伺われます。

そして鷹巣に残された12戸は、昭和32年に新たに分校が立てられ
鷹巣の人々は船で八崎(奥只見ダムサイト)へ渡り、シルバーラインを
利用して、里と行き来が出来るようになり、利便性が向上したようです。
ただ冬の間は湖上が雪に覆われ遮断されるのですが、慣れるうちに
湖上の雪を踏み外さないよう、スキーで往復することもあったとか。
その鷹巣地区も昭和42年11月、湯之谷村が建てた公営住宅へ
居を移し、鷹巣分校は夏季分校とし残されました。
それは山仕事がそのまま継続され、春には山へ帰り、秋のなめこ採りを
終えて下山するという生活の為で、完全に分校が閉校されたのは
昭和48年との事です。

昭和52年に嫁いできた私では、想像すらできない銀山平の生活ですが
最初にこの本を手にした時よりは、だいぶ事情も掴めてきたような気がし
ずうずうしくもブログ記載してしまいましたが、地元の人々から聞きかじり
疑問に思う事(疑問すらわかない事も含め)などを、両親に質問し
参考とした銀山拓殖株式会社の社史「銀山平を拓いた人々」を
読み進めながら、自己流解釈で覚書としました。
たぶん解釈違いにより、間違いも含まれると思いますので
ご了承のうえ読んでいただければ幸いです。
更に、両親から話を聞いてみたい方はお問い合わせくだされば
ぜひそのような機会を設けたいと思っています。
幸い両親も健在で、私の申し出を快く引き受けてくれています。
皆様が直接話を聞くことで、より正しい伝承がなされれば良いなと
思いながら、きっかけ作りのシリーズを記してみました。

11、奥只見ダム建設

昭和33年4月に「6月30日までに水没する移転家屋は立ち退くよう」
通告が出され、現地にあった旅館銀山荘を電源開発(株)が借用する。
実質的な工事は昭和29年から開始され、ダムの本体工事は33年から
35年6月には一部湛水が始まり、12月には一部発電が始まりました。

ダム建設に伴う工事が盛んになるにつれ、当時見たこともないような
大型土木機械が次々運び込まれ、ダムの建設された八崎には
ピーク時五千人もの作業員が働いていたそうで、作業員宿舎や
建設事務所の他、臨時派出所、病院出張所、売店などができ
休日には作業員の大半が、胴巻きに札束を詰め込み
トラックの荷台に詰め込まれ小出町に下り、長岡まで遊びに出たとか。
おかげで小出町は随分潤ったようですが、このダム工事では
工事に伴う事故等で殉職者が117人にも上ったそうです。
銀山平の入植者は補償金を受け取り、出身地へ戻った人
新たな地へ移転した人と散り散りになり
水没しなかった鷹巣の12戸が残されました
義母の実家は与板へ移転、長姉夫妻や従兄弟は埼玉県へ移転し
新たな仕事に付きましたが、埼玉には数件移住しているので
農地開拓の様な移住だったのかも知れません。
また宇津野五十八組合も補償金を受け取り、その資金で
家を新築した為、同じような家が立ち並んでいるのですが
義父から聞いた話では、一枚の設計図をそれぞれの土地に合わせて
利用した為、ほとんど間取りが同じ家が立ち並んでいるのだそうです。
中には使い慣れない大金を手にして、毎日大湯温泉街の芸者通いをし
瞬く間に使い果たした人もいたなどの、噂話も聞かれました。

「銀山平を拓いた人々」 磯部定治 編著を参考にしていますが
両親から聞いた話なども入り混ぜ、当時を知らない私の作文である為
間違いがあり得ることをご容赦ください。

10、奥只見ダム着工まで

銀山平の豪雪や水資源を利用した水力発電は、地元有志により
早くから検討され、大正14年には県へ働きかけていたようですが
実際には莫大な費用の点からも無理が多く、民間の電力会社に
頼るしかない状態のようでしたが、戦争によって中断。
戦後の復興に伴い、電力の必要が求められ実行へ向かう中
新潟県、福島県にまたがる立地条件から、只見川開発のルートを
巡り、県主張のそれぞれの案で揉めたようです。

福島県の主張は、昭和21年に日本発想電が練り上げたもので
尾瀬ヶ原に一大ダムを構築し、奥只見→前沢→田子倉と4ダムを
階段式に次々と水利用をし、その下に調整池を持つダム式発電所を
作り、只見川から阿賀野川にかけて17カ所で利用するというもの。

新潟県の主張は、奥只見ダム湖から枝折峠の山腹をぶち抜いて
延長11キロの水路トンネルで佐梨川へ導水、落差を利用して
湯之谷第一、第二、第三発電所を設け、更に下流でも発電所を
建設するというもの。また田子倉ダムから黒又川にもトンネルで
導水し発電所を作ると共に、その水を灌漑用水に利用するというもの。

それぞれが政治家に働きかけた結果、政争に発展し
中央の政治家への接待が横行し、「只見川」ではなく
「只飲み川」だと比喩されたそうです。
昭和28年7月、ようやく政府の最終案が決まり
基本的には本流案(福島案)として、奥只見ダムから渇水期に
限り隧道で黒又川へ保水すると決まったものの、8年後には
黒又川分水は中止され、分水トンネルは堀りかけで中断した。
この間、昭和25年の朝鮮戦争の特需景気で電力不足が深刻化し
26年5月に民営の九電力会社が発足し、27年には
電源開発促進法が出来、「電源開発株式会社」が設立される。
そして昭和28年11月には電源開発(株)の奥只見建設所が
小出町に設けられ、水没地の補償交渉が始まると共に
29年には資材運送用トンネル(シルバーライン)も着工された。

参考著書 「銀山平を拓いた人々」 磯部定治 編著

9、銀山平に残る地名と生活

さて引き続き本に戻りますが、昭和12年頃には銀山拓殖(株)
会社を中心に銀山平での大開墾計画が薦められたり、それ以前から
水力発電の計画も持ち上がったりするなか、時代は太平洋戦争へと
進み、計画が進展することなく終戦へ向かいます。
ここで奥只見ダムに沈んだ地名の由来に触れていますので紹介。
ダム湖底に沈んだ中心の浪拝(なみおがみ)と言う地名は
銀鉱のあった時代からの物ですが、江戸時代は「波尾神」と書き
その地が樹木の少ない岩場で、大きな岩がまるで大浪がうねる様に
見えたことから、その大岩壁そのものをご神体として拝んだとのこと。
そしてその岩山の頂近くに突出した岩が、人が蓮台に座って見える
事から仏像に見立て虚空蔵菩薩像と言っていたようです。
今も釣り人が場所を示すときに「虚空蔵岩」と目印にしています。
この浪拝や虚空蔵岩、枝折峠にある枝折大明神などが銀山平で
守護神と崇められたのは、江戸時代から伝わる伝説「尾瀬三郎」にも
出てくるので、早くからあったようです。
また大岩壁を挟んだ対岸には、只見川の水際にとても熱い湯が湧き
石積みで囲った湯船が儲けられ、温泉として利用されたそうで
この温泉を根拠に、現在の銀山平温泉の源泉が採掘されました。
さて、次はいよいよ奥只見電力開発の話に移ります。

参考著書 「銀山平を拓いた人々」  磯部定治 編著