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4、銀山平探検隊から

明治34年、35年と続けて銀山平探検隊が組織され
行政、学者、技術者、報道関係者らが銀山平を訪ねたとのこと。
この時一行は、銀山平で出作小屋に泊まりながら生活を実感し
その地で出来る生産活動に思いをはせた様子で
今現在に繋がる、電力発電などの発想も上がっていたようすです。
案内人からの説明を受けたりしたとの事で、いまの地名に繋がる
解説が幾つか載っていたので、記してみると
当事の枝折峠は現在の「銀の道」ですが、その各合目にある
名前の意味合いは、目印的なものと思われますが
「牛の涙」=峠の厳しさに牛もなくという事から
「日本坂」=日本中が見渡せるほど見晴らしが良い
など、当時の地名の付け方が同じなのか、各地方に同様の
名前が多く残っていることに頷けます。
当事、宇津野地区の人が出作小屋を建てたのが
現在の北之岐川:銀山平地区と、須原口だったそうで
この須原口とは、只見川と北之岐川の合流地点付近の平で
現在は湖底(神社下付近)となっているところだそうです。
そこには小湯の岐(こゆのまた)と呼ばれる温泉があり、
小湯の岐⇒恋之岐に変化して今にあるようですので
決してロマンチックな恋ではなく、小さい湯だったのですね。
この探検隊では、各方面の可能性を吟味し
〇 土木・・・木材の搬送には川の他、隧道も検討された
〇 森林・・・木材の搬送は春先の堅雪を滑らせたり、川を流したり
        したが、それも無理なものは現場加工していた。
〇 水産・・・只見川も北之岐川も鱒漁が盛んで、すでに漁業権が
        設定され、産卵期の禁漁を提案している。
〇 農業・・・雑穀、野菜、苧麻(カラムシ)、桑、楮など
〇 鉱物・・・捨てられている坑道にもまだ可能性がある
等の結論を出しているそうですが、水力発電の可能性も
既に運搬作業に利用すべきと思考されていたりしたようです。
そしてこの水産部門で言う鱒と言うのは桜鱒のことで、当事は
この山奥へ海から登ってくるサクラマスがいたという事なのです。
そこで現在との立地条件をの違いを確認したく両親の部屋へ・・
確認出来たことは、ほとんどの立地条件は現在に引き継がれ
現在残されている「銀の道」が当時の枝折峠であることは
前にも述べましたが、この後開拓の過程では、運搬用に適した
より広い山道が、栃尾岐温泉の辺りから切り開かれたこと。
北之岐川は只見川と合流し、現在奥只見ダムの流れ同様に
大鳥ダム→田子倉ダムの流れに沿って、阿賀野川に流れて
いたことが確認でき、長い距離をサクラマスが遡上していた
ことに驚きを感じました。
そして後に、目的は違えども隧道が出来、奥只見ダムの建設に
至ったのですから、地元の開発にかける情熱が伝わります。

それにしても、この確認の為両親の話を聞いていると
銀山平の開拓は、何度かに分かれて挑戦されていたことや
現在の銀山平森林公園の土地が、湯之谷村の村有地として
残っていたいきさつなどが聞かれ、興味深いものでありました。
もちろんその昔語りの中には、より細かに人名、屋号が登場し
佐藤家の歴史や家系図に繋がるのですが、昔の田舎暮らしでは
ご近所の結婚が当たり前である為、近隣集落とのつながりが多く
遠い親戚関係にまで話が及ぶため、とても一度では理解できない
奥深いものである事が分かります。
ふだん聞き流してきた、こんな話が聞けるきっかけとしても
今回の企画は自分自身の為であったと、つくづく感じますが
両親にとっても、伝えておきたい話の一つでもあったようです。

3、銀山平と宇津野五十八組合の起こり

参考著書「銀山平を拓いた人々」も、いよいよ本文に入ります。
北之又川上流一帯が「銀山平」と呼ばれるようになったのは
「昭和20年代末、バスが運行された際の終点名がその名として残った」
との事ですが、銀山平での生産活動は、宇津野の人が養蚕をしたのが
始めで、文久元年1861(14代将軍)には、現在の宇津野や芋川の
人たちが「出作り」といって銀山平まで耕作に通い始めたようです。
それまでに豪雪地での開墾は失敗しており、その地で食す畑作りが主で
他には、狩猟、川魚漁、山菜や茸など山の幸採り、炭焼き、養蚕と
観光業が始まる直前まで行われていた、山仕事を生業としていました。
そして明治6年、地租改正により民有地と国有地をはっきりさせる事が
求められ、折立と芋川が(福島県桧枝岐村も)国有地編入を承諾。
これは、たとえ地権を放棄しても「おらたちの山だ」と言う感覚で
引き続き、山の木を伐ったり、山仕事を続けていたそうで
後に盗伐の廉で捕まる人も出たとの事。
そんな中、宇津野では共有地として押さえておこうという
先駆者が二人いて(上重嘉一郎氏と佐藤半重郎氏)
最後には、納税をすべて引き受けてまで手放さなかったとの事です。
これが現在まで続く、宇津野五十八組合なのですが
当事宇津野に五十八戸あり、そのうち五十六戸が反対し
たった2人で説得し、納税を肩代わりしてまで守ったそうです。
よく「私有地に付き、山菜取り禁止」の看板を見た人が
あの五十八組合ってなんですか?と聞かれていましたが
納税の話と共に「限りある自然の幸を乱獲しない為、五十八戸の
組合とし、その後の分家にはその権利を分けずに守ったとの事」
と大雑把に私が聞いていた話として、お客様に説明しましたが
他にも、フキの採取解禁日が七月一日とか、マイタケを発見したら
サイミ(小枝を丸めて近くに印して残すこと)をしてくると
後から見つけた人が採ることもなく、大きくなってから採るなど
理にかなった約束事も生まれていますし、山菜の王様である
ゼンマイは、採る権利を山手として競り落とし、採るも残すも
競った人の自由で、ゼンマイが細くならぬよう管理しながら採取
いまだに、高い価値を維持しています。
ようやく私も聞かされている五十八組合の話に至り
夫に確認すると、
「そうだよ!その時の2人の石碑が立っているよ」と
雨の中写真を撮ろうと、案内してもらいました。

巧徳碑巧徳碑

巧徳碑

銀山平には野桑が多く(クワイチゴ)養蚕に適したようですが
畑では粟、稗、黍、大豆、小豆などの雑穀を作り、暮らし用具も
地産地消し、木工技術も向上したようです。

参考資料 「銀山平を拓いた人々」 磯部定治 編著 新潟日報事業社

2、銀山平の開拓団

さて「銀山平の歴史」を知る資料としては、年表作成で
ゆのたに村100周年記念で作成された「湯之谷の歩み」と
銀山拓殖株式会社作成の社史「銀山平を拓いた人々」と言う
本を参考にしましたが、特に「銀山平を拓いた人々」では
魚沼の生活を知らない私にとって、昔の暮らしを垣間見る
貴重な資料となっています。
今回復習するためにも、もう一度読み返しながら
大まかな流れをつかみたいと思い、持ち帰りましたが
この本の初めに書かれている文によると
明治34年に北魚沼郡役所主催の「銀山平探検隊」が組織され
調査が行われ、明治43年に資本金10万円で
「銀山拓殖株式会社」を創立しました。とあります。
その総評は「拓殖開発は不可能ではないが、難しい・・・
この地は山中の辺境で、豪雪地の悪条件が重なり
採算を前提とした経営は成り立たない・・・
もともと拓殖事業は、国や県全体の富を高めるためのもので
会社や個人の利益のために行われるべきものではない」との結び。
それは日露戦争後、一大森林資源の有効利用と
新たな農地の開拓など、近代国家を目指す日本の国策もあり
農山村の二、三男対策でもあったとの事。
そこで開拓団が募集され、全国から入植したにもかかわらず
豪雪ゆえに、ほとんどいつかなかったと読んだ記憶があります。
前に読んだ時はそれで納得していたのですが
それでは、開拓地出身の義母の場合は?と思い
今回聞いてみたことが、この「昔語りを聞く会」企画の発端です。
両親の話によると、外部から来た人達には無理でも
地元から入植した人々は、開拓を続けられたそうです。
義母の父も、地元出身の二男で働き者の妻と共に頑張り
奥只見ダムが開発されるに当たり、補償移転するまで
過ごしたようですが、娘達は小学校を終えると山を下り
下宿ししたり、住込みだったりで仕事に就いたようです。
この辺りも聞き取りすると、細かな面白話が聞けるので
興味のある方は本人から聞いてくださいね!
こうしてみると、この時代北海道を始め、国内の秘境と共に
外国への開拓団が組織され、成功と失敗への大きな岐路となり
人生を翻弄された方が大勢いたのだと思います。
つくづく歴史に埋もれた庶民の生き様に気付かされ
語り継ぐ人がいるうちに、ぜひ聞いておきたいと思うに至りました。

銀山平、昔語りを聞いてみよう 1「銀鉱編」

昨日ご提案した「昔語りを聞いてみよう」の企画に
さっそく賛同コメントを頂き、うれしく思っています。
村杉では長い事、義父の語りが売りの宿でもあったのですが
半隠居の昨今、お客様からの問いに答える係となってしまった
私自身の覚書として、村杉年表を作ったのですが
最近の対話の中で、銀の鉱山があったのはいつごろですか?など
より突っ込んだ質問に「江戸時代です」とアバウトに答えてきました。
そこで、只今年表ページに年号が伝わりやすいように
当事の德川将軍の名前も参考に追記してみました。
もちろん、会話中に聞かれても私がすぐに返答できませんが
より詳しく感じてみたい方(何より私自身の無知の為ですが)は
参考にして下さい。
ここまで行くと、伝え聞いた語りでは限界がありますが
今確認してみると、1653年(4代将軍)から銀山の普請が始まり
1859年(14代将軍)の坑道事故による休山まで
(途中で休鉱期間有)206年ほど、掘られていたようです。
そして宇津野の村人が北之又に出作を始めたのが1861年と
なっているのを見ると、歴史がある事を感じられます。
この時代の地理的なことは、義父から直接聞いていただく方が
間違いないと思いますが、私なりに理解したのは
銀鉱での運搬は川が主に使われ、今の枝折峠とは違いますが
旧道の枝折峠にて、人の出入りが行われていたようです。
当宿の屋号である村杉も、最初の場所が村杉沢の脇に立地した
ことから村杉小屋と名付けたそうですし、銀鉱のあった当時も
村杉沢の所に村杉の宿(しゅく)があったとの事です。
その他、銀山平地域に残る地名の由来に関する話は
至る所にあるので、興味深い所ですね。
まずは、私自身の復習編ということで
「銀の鉱山があったのはいつ頃?」と言う所から始めてみました。