7、昭和期 銀山平分校の始まり

銀山平の開拓も昭和に入り、恐慌や凶作等の問題もありましたが
厳しいなりに生活に落ち着きが出来、開拓団の中にも子供が育ち
教育問題が問題となり、昭和4年ころには寺子屋が出来たようです。
その後しっかりした分校を作るにも、先生を見つけられずにいる中
葎沢に住む若者が入ってくれることとなったそうですが、銀山平には
鷹巣と浪拝(ナミオガミ)の2カ所の分校があり、通いきれないので
先生が1週間交替でこの分校を行ったり来たりして教えたとの事。
この先生と銀山平の住人との強い絆と交流が伺われますが
分校自体5月8日から11月8日の開校である上、ゼンマイ折りの
季節になると、更に山奥の出作小屋へ親が入る間は休校にもなる
と言う環境で、短い学校生活であったようです。
さてここで、両親からの聞き取り再開・・・
義母は昭和4年生まれで、長姉が10歳ほど上ですので
この頃のどんな記憶があるのか確認すると
当事は、12歳まで分校に通いながら銀山で生活し、その後は里に
下りて住込みの奉公に出たとの事、戦争へ向かう時代でもあり
里の暮しもあまり変らなかったようですが、奉公に出ると言っても
13歳ですので、最初は子守や家事手伝いなどの仕事から始まり
奉公先の仕事に移っていったようで、その間に裁縫などを習い
身に着けて行ったようです。
当然話はそのまま、両親が結婚後に暮らした銀山平の生活へと
続くのですが、当時五十八の土地では、ゼンマイ折りが生業の
最盛期の頃で、山を競るにも山手が高く、家族が多くないと合わず
北之岐の出作小屋で山仕事をしていた両親は、さらに奥にある
恋の又までゼンマイ採取に入っていたこともあるとか。
恋の又は義母の親戚がゼンマイ権利を持っていて、未使用の地を
使わせてくれたとの事ですが、この時に住む家と言うのが
近くで伐採した根曲りの木を柱に使い、茅葺の屋根を付けた
簡単なもの。ゼンマイ折りの二~三週間だけ住む借家住まいの為
布団もない生活で、寒い小屋の中で蓑や麻袋などを布団代わりに
過ごす厳しいものだったそうです。
次回はこの辺りの聴き語りをしたいと思います。

2 Comments to 7、昭和期 銀山平分校の始まり

  1. 片桐久尚 より:

    初めまして。実は家の父親が銀山平の分校の教職をしておりました。片桐と申します。こちらの記事を偶然拝見し思わず書き込みをしております。
    家の古いアルバムに当時の分校での文化祭や運動会のスナップが何枚が残っております。あと独り乗りのロープウエイ?の様な物に股がった父の写真もあります。失礼致しました。

  2. 村杉 より:

    コメントありがとうございます。

    ブログがきっかけで古いアルバムを懐かしんで頂けたのであれば嬉しい限りです。
    独り乗りのロープウェイ?とは川を渡るときの籠渡しのことでしょうね。
    私自身も聞き語りですが、当時のことを知る人も年々減少し時代が遠くなりつつありますね。

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